Chokei's Fusato Column. 7



森の町首里





        円覚寺


小学三年生は遊び盛りである。
美しい曲線を描いて聳え立つ城壁、
赤瓦の櫓を載せたアーチ型の城門、
端然と夕日に映えて建つ守禮門、

そのすべての史跡を包み込むように
林立する巨木アカギの大群落、
その昼なお暗い森の中を
悠々と飛翔する珍蝶オオゴマダラやコノハチョウ。

首里城がどういう境遇に置かれているか、
子供たちには関わりがない。
遊ぶ相手の自然が豊かに残されてあればいいし、
出入り自由の建物が近くにあれば、もういうことなし。

中でも、五百年以上も前に建立された
尚家の菩提寺円覚寺は、
今風にいえば、ワンダーランド。

門前の木立はまばらで、
ほどよい木もれ日の射す地表面には
夥しい数の小さな泉水。

清例な湧水は近接する弁財天堂の円鑑池に注ぎ、
やがて蒼い池水を湛えた竜潭に流れ込む。

この一帯は、一四〇〇年代、
第一尚氏の頃に活躍した中国からの
帰化人・懐機(かいき)によって整備された首里城外苑。

国宝級の史跡が散在する甚だ重厚な地域だが、
子供たちは自由に軽々と跳梁して遊びまくった。

竜潭は、周囲わずか六百メートル、水深三メートル、
金槌型をした池だが、
チョウケイたち腕白の恰好の遊び場である。

東と西の岸にそれぞれ沖縄師範学校附属国民学校と
首里第三国民学校が対峙していたから、
遊び場としての竜潭の<制海権>をめぐる
子供たちの争いは、
ときに熾烈を極めた。

月一回の「靴箱の水洗い」で
両校のタイミングがかち合うと大変。
わずか五十メートルの海峡を挟んで、
小石が飛び交い、罵声が交錯する。

<第二>の子供たちの方が
はるかに野蛮で腕力が優れているから、
こちらに届く礫も大きく狙い撃ちの確率も高い。
ひ弱な<附属>の軍勢はいつも旗色が悪い。

いらいらした佐久原洋が、
池に浮かんだ靴箱の蔭から水に入った。
「おい大城。お前も来い。奇襲攻撃だ。
他のみんなも、そーっと石を積み込むんだ。
敵に気づかれんようにな」


大城朝忠が、得たりやおうと水に入り、
ほどほどの<弾丸>が積み込まれると、
竹久原と大城に押された靴箱は、
あたかも漂流しているかのように、
ゆらりゆらりと向こう岸に流れていった。

「附属のパカ、靴箱が流れたぞ。どうするつもりだ。アホー」
ワイワイ騒いでいる敵陣に近づいたとき、
やにわに二人の丸坊主が靴箱の横に現れて、   
至近距離からつぶての嵐を浴びせる。
慌てふためく敵軍。

ややあって悠々と凱旋する佐久原と大城。
国史の授業で習った「屋島の合戦」を思い出して
<付属>の腕白たちはビショビショの靴箱を担いで、
意気揚々と教室に引き揚げるのだった。

この竜潭、
五百年の歴史を持っていながら
子供の生命をいまだに一人も奪ったことがない。
池や川の水に対してどうつき合うか、
子供たちはみな心得ていたのである。

石垣から転がり落ちる、木登りから滑り落ちる、
池の縁で溺れかかる、磯の波に呑まれそうになる、
小刀で指を切る、金槌で指を叩く、
熱湯で火傷をする。それぞれに小さい危機を体験しながら、
子供たちは危機回避の本能と反射を磨いていくのだ。

また、自分に降りかかる危機や痛みを通じて、
喧嘩相手に与えるであろう
痛みの大きさも思いやる想像力も育っていった。
佐久原たちの靴箱に積み込む弾丸の礫も、
だから子供たちは親指より大きいものは拾わなかった。

竜潭の岸辺には、また、
二つの国民学校の腕白たちによつて
<漁業権>も設定されていた。



               戦前の竜潭と世持橋

池の水が流れ出るところに石橋がある。
ただの石橋ではない。
一四七○年代、国王の命令を受けた有能な国土・懐機によって
竜潭がデザインされたとき架けられた「世持(よもち)橋」。

橋の匂欄羽目石には魚や法螺(ほら)貝や唐草模様が施され、
由緒ある石造建造物であるらしいことば子供にも察しがつくが、
チョウケイたちの関心は橋の下の草むらにあり、
県指定重要文化財にはトンと頓着がない。

トービラー(闘魚=トーイユ=たいわんキンギョ)と呼ぱれる
熱帯淡水魚が無造作に獲れる草むらが橋の下にあるのだ。
橋の下の中央線によって
二つの国民学校の<漁場>が暗黙のうちに定められているはずだが、
腕白大将の佐久原は、いつも相手の縄張りに入り、
漁業権を侵犯する。

両手を篭のように拡げて草の根辺りにつっ込めば、
大小のトービラーが何匹か必ず獲れる。
トービラーは鰓呼吸が上手で、
眼球と鱗を濡らしておけば、しばらくは生きている。

佐久原はチョウケイのズボンに思い切り水を引っかけて、
紫色の綾模様で跳ねるトービラーを
何匹かポケットに入れてくれるのだった。

二人して、何食わぬ顔をして橋の欄干によじ登る頃、
ようやく<第二>の連中がワイワイ<漁場>にやってくる。

チョウケイのポケットのトービラーは、
まるで佐久原と共通の鼓動を伝えるかのように、
元気にピクビク跳ねて、幼い友情を深めてくれるのだった。


首里は、エリートの町でもあった。
廃藩置県のリストラを生き延びた首里士族や泡盛産業の旧家、
官公庁の役人だけでなく、
首里市民はみんな「おれは首里人」というプライドを
後頭部のあたりに隠し持っていた。

ところが、プライドばかり高くて、
所行の緩慢さ、要領の無さを評して
「ウムニーカディンスインチュ(ウムニーばかり食べていても首里人だ)」と
他所の人たちは揶揄(やゆ)する。
世替わりの不遇をかこちながらもプライドを捨てきれない首里人。
そのド真中にチョウケイたち一家は
十年振りに里帰りしていったのだった。

昭和十五年、琉球列島はまだまだ気だるい
王朝文化の名残りに浸ったまんま
悠長な日々に明け暮れていたが。

日本列島は、
皇紀二六〇〇年を奉祝する気運の高まりと
国民精神総動員の動きがすでに始まっていて、
最南端の沖縄にも徐々に
そのうねりが届くようになっていた。

沈潜するムードを揺り動かすような行事が
首里にも次々と押し寄せる。

皇民化されて間もない沖縄にとって、
紀元二六○〇年という節目にどれだけの意義があるのか、
実感できないままに、国策が旗行列となって、
にぎにぎしく首里城下の商店街を流れていき、
提灯行列が竜潭(りゅうたん)の水面を明々と照らして過ぎた。

思えば、これが沖縄戦という死の瀑布に繋がる川の流れの
最初の動きだったのかも知れない。
チョウケイたち少国民を隊列に組み込んだまま、
抗し難い勢いで沖縄全体が
軍国の奔流に乗って流されていった。

〔チョウケイ少年黒潮を渡る〕
第ニ章 森の町首里「古都首里」より




以下、単行本へつづきます
      ↓

沖縄が長寿世界一を達成するのに大きく貢献した
公衆衛生。その最前線で奮戦した元公害衛生研究
所所長である著者の少年時代のノンフィクション。

推薦/脚本家 高木凛氏「まえがき」より
「医者になろう、外科医にメスを振るわせる前に病をくい止めよう」
と、予防医学への道を歩むチョウケイ少年の一途でまっすぐな思いは心を打ちます。本書はまさにひとりのレキオ少年の半生を辿ったものですが、沖縄現代史としての側面も持っています。
発行 吉田朝啓  定価 1,600円(税込み、送料別)

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