Chokei's plants column 6







近頃、しきりに竹が気になってしようがない。
車で町や村を通過するとき、
あるいはなにかの用事で住宅地を歩いて通るとき、
ふと竹の植え込みが目に入ったり、遠くに竹林を発見したりすると、
もう無視しては通れなくなるのである。

歩み寄って植え込みの根元から枝の先までつぶさに観察する。
木の幹に当たる部分を竹では稈(カン)と呼ぶが、
その部分に竹のいろいろな特徴が集まるので念入りに調べる。

節の横筋が二本あればマタケ、
一本あればモウソウチク。
節から出る枝が一本であればササの仲間、二本はマダケの仲間、
三本ならナリヒラダケの仲間などと、
竹の参考書から拾った知識を総動員して、
人様が植えて育てた竹の品定めをする。

見知らぬ男が玄関横の植え込みの近くで不審な挙動をしているということで、
家人が出てきて
問い詰められる羽目に陥ることもしばしばである。
断りもなく人様の屋敷に入り、
その所有物にうさん臭い眼(ガン)をつけるのだから、
私の方に落ち度があるのは重々承知の上ではあるが、
竹の魅力が私を強引にし、
お互いが竹の愛好家だと思う気持が私を無礼にしてしまう。




その無礼を詫びて、
竹に惹かれてついふらつと入り込んだ次第を説明する。
相手の表情が許容と共感にほころぶと、こちらもホッとする。

もし、植え込まれた竹が、
ホウライチクとかキンメイチクとか、
あるいはうんと凝ったホテイチクとかキッコウチクというような
稀少価値の高い種類であったりすると、
家の主は得意になって、ときにはくすぐったそうに目を細めて、
入手したいきさつや手入れの苦労話など、
むしろ進んで話してくれることが多い。

こうして、どこそこの屋敷にはなにダケの庭木、
どこそこの村にはなにダケの林という風に、
竹類の分布その成育状況に関する情報が
私の頭のアルバムに取り込まれ、蓄積されていく。
これが私の密かな楽しみの一つとなっているのである。

ところで、多くの民家の庭には
日本の主なる竹のいく種類かが植裁されていて、
私のような竹の愛好家を喜ばせてくれるのであるが、
竹の理想的な姿をしている場面は意外に少なく、
一方で私をがっかりさせる。

剪定され、束ねられ、
あるいは窮屈な鉢に植えられて伸び悩んでいたり、
花芽どきだというのに枝葉を伸ばす活力もなく
気息奄奄たる状態であったりして、
私を悲しませる例がまた少なくない。

そして、住宅地を離れて、
さて林材としての竹の繁殖ぶりはと眺めるとき、
沖縄ではこれがまた意外にも貧弱で乏しいことに驚かされるのである。

沖縄の山野に、見事な竹の自然林を眺め、
町や村の人家近くにもいろいろな竹類を導入して、
竹の持つ特性やそのもたらす恩恵をフルに享受したい、享受させたい、
というのが私の長年の夢であり、
それは少年時代の体験によって育まれたと思われる。

思い起こせば、終戦前後、
九州の農村に疎開していた私の中学生時代は、
竹というすばらしい植物の魅力に憑かれ、親しみ、
それによって感性を育まれた毎日であったといっても過言ではない。

川原で魚を釣るにも竹、小川でうなぎを捕るにも竹篭、
模型飛行機・竹トンボ・凧・竹馬・鳥篭、水鉄砲を作るのにも竹。
竹は子供の遊びの支柱であり主材であった。



また、民家の薬屋根を押さえるのも竹、
垣根も竹、物干し棹、つるべ、雨樋、稲叢の軸など、
至るところに人々の暮らしに溶け込んだ生活材としての竹があった。

遊び疲れて、
フッと眺め渡たす日暮れの田舎の風景には、
どの方角にも竹林があったし、
数千数百の雀の群れを含んでざわめくこれらの竹林は、
さながら雛を抱く巨大な雌鶏のように母性的で、
無性になつかしいものに感じられたものである。

竹に関して私の頭の中にあるイメージは、
当初はこのようにして子供心に焼きつけられた風景の中の竹であり、
遊びの具としての竹であったが、
園芸を終生の趣味と選び、
植物全般を楽しみながら調べるようになると、
木でもなく草でもないこの竹の仲間が、
ますます私の心の中に根を張り、好奇心をかきたてる。
そして、竹の理想的な姿が私の心象風景の中に描かれるのである。

竹は、なにものにも拘束されずに、
四方八方に地下茎を伸ばして大群落を作るときに、
その種類の持つ典型的な姿を私たちに見せてくれる。

春になれば、
思いがけない地点に端々しい竹の子を出し、
日に日に伸びて、
やがて艶やかで強靭な稈を成熟させる竹。

水平面上でも、垂直方向にも、
最大限に伸長して自己の能力を展開し、
一本一本独立不覇の姿を地上に見せてくれる竹。

それでいて地下には互いの骨肉の縁を密にしていて、
人間が刃物を振るわない限り決して個々に離散することがなく、
その辺り一面の大地を覆って、清清しい竹林を形成する。

そして、その竹林に入れば、
空気は明るい木漏れ日で若草色に染まり、
はるかな頭上には、蕭(ショウ)や尺八の音色に共通する
あの笹鳴りのサビが風に調和する。

幾千年もの長い間、
傾斜地の多い日本の国土をしっかりと固定しながら、
日本人の情感にワピ・サピを加え、
日本の文化と産業を支えるのに貢献したこのような竹に、
私は強い愛着を覚えるのである。



それだけではない。
横に刃物を引くと頑強に抵抗する竹が、
条理に従って縦に降ろされた刃物には決然として破裂する、
その潔さ。
さらに、普段は空虚にして無為の連続のように見えても、
一旦、節目に来ると旺盛に枝葉を出して責務を全うする、その律気さ。
竹に備わるこのような属性の一つ一つに私は惹かれ、学び、
そして首を垂れる気持になるのである。

竹に寄せる私の想い。当分、冷めそうもない。



沖縄エッセイストクラブ作品集
第6集〔阿壇〕所収
1989年(平成元年4月1日)発行


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