Chokei's talk  長寿の邦 対談1




疾病対策の果たした役割

大鶴正満氏
(琉球大学名誉教授)
with
吉田朝啓
(医師、公衆衛生学)



琉球大学に医学部を


吉田 大鶴先生とお会いすると、なにかとても心が穏やかになって、
ホッとするのですが、どうしてでしょうか。
先生は、福岡でお生まれになり、
青春時代は、旧制台北高等学校、
旧制台北帝大医学部をご卒業なされるまで、
ずっと南国で過ごされた。
そのせいでしようか。
とても暖かいトロピカルな劣雰囲気に包まれていらっしゃる。(笑い)
先生の奥様も台湾でお過ごしになり、
奥様のお父様は、台湾の農業発展に大きく貢献なされた方と伺いました。
とても上質のお茶「鉄観音」を開発なされた方と漏れ承りましたが。

大鶴 家内の父親は京都のお茶どころ宇治の出身で、
台湾の茶業の伝習所長などもしていましたが、
私の大学卒業の年に亡くなりました。
代々お茶には縁が深かった
ようですね。

吉田 台湾については、後ほど、
マラリアなどの風土病を含めていろいろとお伺いしますが、
先生ご自身は、台北帝人ご卒業後は、早くから基礎医学といいますか、
風土病に興味をお持ちになって、進まれたのですか。
医学部の後は、たいていの場合、臨床の道、
そして開業という方向が大方の進路なのですが
この道を選ばれたお気持ちは。

大鶴 実は私は旧制台北商等学校理科乙類卒業の年(昭和十一年)が
旧制台北帝大医学部開設の年で、
ドイツ語専攻の理乙の連中は
それこそトコロテン式に本土出身者と共に医学部に入学しました。

しかし入学試験があってびっくりしました。
第ニ次大戦前の大学は法律、工科全盛の時代で、
医科は一部の帝大を除いて無試験でした。
医科は、女学生にも人気がありませんでしたね。

どうも私は医者には向いてなく、
中学時代から人類学、考古学的なことが好きで、
医学部学生時代には森鴎外のご長男の解剖学の森於菟教授と、
沖縄の人類学的研究で有名な
同じく解剖の金関丈夫教授のもとに出入りしていました。

そんなことで卒業後は解剖学教室に助手として入りました。
しかし半年もしないうちに陸軍に召集され
短期現役軍医として南支那の広東の
マラリア等の予防を主任務とする衛生部隊に配属されたんですよ。
多分私が台湾の医学部出身であることが主因でしょう。

とうとうその部隊に凡そ五年間おることになり、
敗戦帰国後の私の生業を連命づけることになりました。

吉田 戦後は、九州大学、新潟大学で、
主として医動物学の研究と教育に専念なさる傍ら、
(財)日本寄生虫予防会など、
この方面の民間団体の強化育成にも尽力されました。

そして、沖縄にとって、とても幸いだったのは、
昭和五十三年(一九七八年)、
琉球大学医学部創設準備室長になられたこと。
その前後のいきさつには、
沖縄を巡るいろいろラッキーな事情も作用したと思われますが、
先生ご自身も、「南国沖縄」「戦争で苦労した沖縄」というような、
なにか惹かれるものがあって、
医学部創設という新しいお仕事を
引き受ける気持ちになられたのではないでしょうか。

大鶴 どうして私が沖縄の医学部創りに駆り出されたのか、
今もって分かりません。
当時私は新潟大学の医学部長をしており、
その専攻が南向きであること、
学閥の弊がないだろうなど当事者が考えたのかも知れません。

吉田 当時、沖縄の医者仲間では、
「新設される琉大医学部が、どの大学医学部の
学閥に組み込まれるか」と、話題になりましたよ。

「武見医師会長が慶應だから慶大医学部系で占められるのでは…」と、
下世話に花が咲いたり…。
大鶴先生が決まり、雲間から太陽が現れたように。(笑い)

大鶴 創設の理念に「南に開かれた国際性豊かな医学部」だけは
忘れませんでした。
確かに、私は青春時代を台湾で過ごして、
南への思いは人一倍強いようです。

そして、例えば、ツツガムシ病やマラリアなどの風土病を、
日本本土で調査したり、対策を研究している間も、
いつも、台湾や琉球列島の状況が気になっておりましたし、
特に、本土で、いろいろな風土病が自然消滅的に、
あるいは国を挙げての撲滅対策などで、どんどん姿を消していく中で、
沖縄だけが、戦後風土病対策でいろいろと苦労されたということに、
学者としても個人としても気になっていたところでした。

吉田 昭和四十年八月に、日本政府を代表して、
故佐藤総理が沖縄に来られて、
琉球大学に医学部を創ると約束したのですね。

大鶴 そうそう。これが、医学部発足の具体化に繋がった。

吉田 その裏で、当時の日本医師会・武見太郎会長の大きな影がちらちらするのですが。

大鶴 あの人は、政府も動かすほどの大物でしたからね。
こと医学・医療に関しては、政府も武見さんの意見を尊重していたようですね。武見さんの優れた点は、視野が広く、ただの医者ではなく、
基礎医学の大事さをよく理解した、いうなれば、
Public Health Mindedな(公衆衛生の素養を身につけた)医師だったと
いうことですね。

吉田 本土政府総理府に琉球大学医学部設置問題懇談会ができたときに、
武見さんが会長になり、その翌年七月、
調査団長として、沖縄にこられたのですね。

大鶴 先生は、こんなことを話しておられましたね。
「台湾総督児玉源太郎大将の
総務長官をしていた後藤新平は偉い人だった。
その台湾統治は壮大な生物学的実験だった」とね。

武見先生は「沖細の医療水準向上のためには、
その基礎的条件の整備が急務であり、そのためには先ず、
保健学部を創る」と決めたのです。
そして、日本のいろいろな事情にとらわれない
自由闊達な医学部を発足させる、
それが当時の沖縄ではできるはずだと考えたのですね。

吉田 けんか太郎といわれた武見さんでしたが、信念の強い方だった。

大鶴 その所信ともいえる「健康の保持・増進、疫病の予防、治療、
リハビリまでを含めたいわゆる包括医療(Comprehensive Medicine)」を
実現しようと構想したのですね。

吉田 その結果、まず、昭和四十一ニ年(一九六八年)、
琉球大学保健学部ができ、
現在の県立那覇病院であるところに
琉球大学保健学部付属病院が創設された。
医学の前に保健学を先行きせたところは、ユニークですね。

大鶴 そうなんです。この態勢は、その後、昭和四十七年(一九七二年)、
沖縄の本土復帰と共に、大きく変わり、琉球大学は国立となり、
設置そのものが総理府から文部省へ移行し、
医学生の養成は制度上からも医学部か医科大学でないとできないことになり、
しかも翌四十八年には田中総理の時に
無医大県解消の閣議決定に基づき
十数校の医師養成機関ができて沖縄はその最後になりました。

その間、沖縄県は二十数年の紆余曲折を経たことになります。
それで私が来た時にはすでに医学部を創ることになっていました。
そんなことで、私も文部官僚の一味と武見先生に大分にらまれました。
とにかく琉大医学部の正式の発足は昭和五十六年(一九八一年)四月で、
医学科百名、保健学科六十名でスタートしました。

吉田 最初の入試で県内高校出身者の入学者数は
三十四名と大健闘しました。
当時、本土の新設国立医学部、医大の入学者で
当該県出身者は一〜三名程度でしたからね。

大鶴 そうそう、卒業時の医師国家試験の合格率も、
一期生からしばらく九十六、九十三%を維持して好調でした。
また、他の府県からどっときて、卒業したら、
さっさと他の府県に去ってしまうのでは、
なんのために沖縄に医学部を創ったのか意義が問われますから。

ここに琉大医学部の昭和六十二年三月卒業の一期生から十三期生までの
同窓会員名簿がありますが、
卒業生合計千二百三十二名で、
それらのうちで沖縄県内にとどまった同窓会員数は
六百九十八名となっています。

沖縄県の医師総数二千百三名(平成八年十二月現在)で、
琉大医学科出身者が県内医師数に占める割合は
凡そ三十三%に達したことを示しています。


長寿の要因

吉田 さて、先生。今日この対談では、先生を御招きして、
沖縄の長寿について語って頂き、県民に、
そして沖縄の長寿についで関心をお持ちの方々に、
何が長寿をもたらした原因なのか、
わかっていただきたいと願って企画した次第です。

琉球大学に医学部ができて、
長寿の大きな支えができたようなものですが、
医学部ができたらみな長寿になるかというと、必ずしもそうではない。
今の長寿は、はるか数十年前のみんなの努力のおかげ、
その当時の社会情勢の結果ともいえるわけですから。

大鶴 そうね。沖縄はたしかに長寿の国。
男性はちょっと全国平均より、落ちているが、女性は断然全国一位ですね。
百歳以上の超長寿者(平成十一年)も、三百六十三名で、
人口十万当りの率では、全国の三倍以上、十年連続一位で、
圧倒的に女性が多い。これは、すごいですよ。

しかも、出生率が高く、若者、年寄りが多いという
特異な人口構造なんですね.
依然として長寿では優位を続けている。
それで、平成七年八月には、
太平洋戦争・沖縄戦終結五十周年の記念事業として、
知事が先頭に立って、
「世界長寿地域宣言」をやった。

WHOの事務総長の中嶋宏先生や国内外の著名な長寿の研究者も
大勢参加されて、盛大でしたね。
長寿をもたらした要因として、
沖縄の温暖な気候、もろもろの疾病対策の成功、
先人の英知の結晶である合理的な食文化、
そして、人情あふれる沖純の精神風土などが取り上げられ確認されました。

敗戦直後の日本の平均寿命は男五十歳、女五十四歳ぐらい、
沖縄もそれぐらい、少し上かな。
それが平成七年、男七十七・二二歳
(全国四位、昭和五十五〜六十年は一位)、
女八十五・〇八歳(昭和五十年から毎年一位)、
平均で日本一になっています。

沖縄の自然や人為環境を考えてみますと、
島ちゃび(島痛み)という言葉がありますように、
正直に言って良いことばかりではありません。
台風を取ってみても年に平均七回は来ます。

沖縄を通過するころが一番のろのろしていて
島国のためにそれによる作物の被害、塩害も大きい。
県民の所得をみても本土の七十%ぐらいでしようか。

先の大戦では十二万もの県民が散華し、
政治情勢の最大の変化を受けたのも沖縄です。
このような大戦後の驚異的な平均寿命の延びを
どのように考えたらよいのか私など時々悩みます。

吉田 まず、やはり、青年たちが戦場に征かなくてもいい平和のお蔭……。

大鶴 そう、それも大きいですね。
日本全体として。明治十九年ごろから確立された戸籍の実態、
弱い赤ちゃんの届け出の問題など
(戦前ある時期、新生児死亡が届け出されず、
乳児死亡率が異常に低い時代があった)
いろいろなマイナス要因が専門家によって検討されても
長寿というその成果に落度は見つけられないのですね。

そうすると、これらの驚異的な平均寿命の延びの要因は余程、
強固なものと考えざるるを得ません。
後から尚先生らの長寿の専門家のご意見をゆっくり拝聴したいものです。


亜熱帯性気候

吉田 私も、いま先生が挙げられた四つのポイントには同感で、
ことあるたぴに、それぞれを強調しますが、
一般の県民には、今一つ、理解されていないと思います。
そこで、今日はまず、長寿を支えている琉球列島の自然風土について、
いろいろと先生にお聞きしようと、待ち構えておりました。

大鶴 いやいや。お手柔らかに。
沖縄はね。いや琉球列島と言ったほうがいいかな。
とても広い海域に分散する島々でしょう。
海を含めての県域は、広大なものですよ。
陸地面積でも、その総面積は、東京、大阪、神奈川、香川の四都府県のそれぞれより広く、
これが、本州の半分くらいの広い海域に散在している。

吉田 陸地が分散しているという地勢、
そしてその陸地がすべて海に囲まれているという状況は、
人々の暮らしに大きな影響を与えると思いますが。

大鶴 上述の島ちゃびにもみられますように、
経済的には、今までは、かえって
足伽となって、非生産性のもととなったのでしようね。

(「対談 長寿の邦」第一章より)


以下、単行本へつづきます
       ↓


推薦
TBSニュース23キャスター筑紫哲也

戦中・戦後の苦難、基地の重圧、低所得・高失業ーなのに何故沖縄は長寿世界一の地となりえたのか。
その秘密を、四人のその道の達人が文化論を交えて縦横に語った。21世紀を健やかに生き抜く知恵を伝授する書。

発行 長寿対談刊行委員会
定価 1,600円(税込み、送料別)
ご注文は、下記まで。
メール o-r-pro@nirai.ne.jp
電話 070-5818-3038
オーシャン・ロード・プロダクション
那覇市首里石嶺町1-108-2


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