Chokei's Okinawa Wars Column. 8



沖縄戦[生きてし止まん]
最後の一中生、60年後の活動
(沖縄県立一中入学六十年記念誌プロローグより)


 続・最後の一中生記念誌で、平和への想いをぶつける。
Drチョウケイは編集委員長を務めた。
書き下ろし「60年の軌跡」で同級生全員の沖縄戦における消息を追った。



私たちは、自ら最後の一中生と呼んで、団結し、
親睦を深めている年長者グループである。

ここでいう「一中」とは、
戦前の沖縄県立第一中学校で、歴史は古く、
琉球王国時代に創設された国学
(国内の俊才を集めて国を支える人材を育てるという理念)に
その淵源をもつ伝統校であった。

沖縄戦の最中に、
熾烈な砲爆撃が母校「一中」の長い伝統を粉砕する状況を目撃して、
奇しくもその終焉の幕引きの役目を果たしたのが、
私たち最後の一中生である。


一九四四(昭和十九)年四月、
その一中に入学して、
およそ半年の楽しい学園生活と
残り半年の過酷な勤労動員、
そして、その後に続く熾烈な沖縄戦を体験し、
母校一中の長い伝統を、
戦後の新制首里高等学校に引き継ぐ役割を担った
最後の一中生である。

この引継ぎは、単に沖縄県立第一中学校だけでなく、
県内のあらゆる旧制中学校・女学校から新制高等学校
(田井等、宜野座、前原、石川、コザ、首里、那覇、糸満、知念)への
継承と発展にも見られる特徴であった。

従って、これから述ベる中で、
最後の一中生とは、
県内すべての最後の旧制中学校生・女学校生という風に読み取ることも
できる部分があると、私たちは考えている。


沖縄戦末期、白旗を掲げて助けを請う少女

ところで、私たちが生まれた一九三一 (昭和六)年といえば、
柳条湖事件をきっかけとして満州事変が勃発し(九月)、
続いて、一九三七(昭和十ニ)年には日華事変勃発、国民精神総動員など、
世界的な大恐慌のあおりを受けた日本の経済が、
その打開策を軍備の拡張に求めて、
戦時経済体制へと進展していった世替わり元年ともいえる年である。

私たち最後の一中生は、
たまたま青春期に戦争と平和を体験し、
憲法の埒外に置かれた二十七年間と祖国復帰後の二十二年間を通じて、
日本最南端の琉球列島で
祖国の戦後の動きを横観してきたが、
いま、再び日本全体が戦争を遂行する能力を着々と身に付け、
そのための準備として、
憲法を改変しようと傾きつつある世相を見聞すると、
言いようのない緊張感と焦燥感を覚える。

私たちは、あの鉄の暴風の中を潜り抜けて生き残ったが、
世界に誇る平和憲法を急いで改変してまで、
再び若者に銃を持たせて
異国に送り込む必要性がどこにあるのかと、
考え込んでしまう。

もし若者に再び銃を持たせるなら、
今度こそはっきりと、
銃を持つことの意味と神聖であるべき国家の狙いを、
全国民に納得させて欲しい。
これが、生き残った者の最小限の願いである。

思い起こせば、陰湿なガマ(洞窟)のあのカビの匂い。
そのガマに避難してこもる民間人を
追い出すのに抜刀して脅しをかけるあの皇軍兵士たちの形相。
砲弾が破裂して後に鼻を突くあの硝煙と金属の匂い。
肉体が破断されて、ほとぱしるあの赤い血の色。
数日後その傷口に蠢くあの蛆の群れ。
六十年を経過しても、まだ私たちの記憶に鮮明である。

「おのれの身命は鴻毛よりも軽い」、
「尽忠報国。国家のためなら血を流してもいい」。
一途に思い込んだ少年時代の私たちを一度裏切った国家が、
またぞろ私たちの生存期間中に戦の用意を始めたことに、
居たたまれない思いをするのは、
あながち僅かな人数の最後の一中生だけではない筈である。

鉄の暴風を辛うじて掻い潜った最後の一中生も、
いま残り少なくなっているが、
どのような思いで祖国の敗戦と戦後の世替わりを迎え、
その後六十年をどう生き抜いてきたか。

無念のうちに戦場に散った
三十二名の同級生の胸のうちにも思いを馳せながら、
以下にその後の一中生の生き様と所信を記録して置きたい。

ところで、私たち最後の一中生の所属する世代は、
戦前の旧制中学と戦後の新制高校を連結する運命的な地位にあるが、
年代でいえば、一九三一 (昭和六)年を挟む十年間に出生し、
その後に日本が歩んだ、いわゆる十五年戦争の時代に、
青少年期を過ごした昭和一桁と呼ばれる特異な世代で、
いま(二〇〇五年)、満七十歳から八十歳の戦中・戦後派である。

私たち最後の一中生は、
鉄の暴風を生き延びた者同士の喜びと団結を確認するために、
いまから二十年ほど前に記念誌「最後の一中生』を出版した。


「最後の一中生」の新聞報道

一中入学から、
戦災で母校が飛び散るまでの
僅かな期間の旧制中学生としての思い出、
一九四四(昭和十九)年四月から翌年六月二十三日までの
十五ヵ月間の一中生としての
戦乱の体験を風化させないために記録することが、
出版の主なる目的であった。

あれからさらに二十年、
「思えばはるぱる遠くへきたもんだ」という感じのする昨今であるが、
今から丁度六十年前に、珠玉のようにきらめき、
珠玉のように飛び散った私たちの一中生活を、
あの時、ただ記録するだけでよかったのだろうか。

「鬼畜米英」「撃ち撃ちて、撃ちてし止まん」と励まされ、
青少年期の情熱を注ぎ込んで戦った挙句の敗戦。

その後、今度は「日米協力」「四海みな同胞」と諭されて、
思想の大転換を迫られた私たち昭和一桁が、
この貴重な体験を活かして、その後どう生きたか、
を書き残さなければならないのではないか。

国全体が再び富国強兵的なムードに傾く中で、
再びの「,縦の公″に尽くす滅私奉公」の路線ではなく、
今度こそ逆に、己を活かす「活私奉公」の信条で、
身近な地域社会で,横の公″に尽くし、
さらに国全体にも視線を及ぼして至誠を尽くすという
国民精神を涵養できないものか。

「昭和一桁は、いまこう考える」と、
ものをいうべきではないか。
私たち最後の一中生は、
沖縄での地上戦をつぶさに実見し、
その後二十七年間も米国の占領政策を体験した。

この楔(くさび)石のような世代を抜きにしては、
沖縄の戦前と戦後を繋ぐ架け橋は成り立たない。
それほど比重の大きい世代であると考える。

人類は、二十世紀の間、
戦争に明け暮れたといわれているが、
私たち昭和一桁世代は誕生の瞬間から
青春の大半を戦争に曝され、戦争に翻弄され、
戦争の被害をもろに被った戦争の申し子であるといえる。

もちろん、日本は国民全体が日清・日露の戦い以来、
戦争に関わって、甚大な被害を被ってきたが、
現在の平和な民主主義社会に移り変わる
昭和二十年(一九四五年)を境目にして、
幸か不幸か、青春の前半を軍国主義教育で固められ、
そして後半を民主主義教育で改めて染め直され、
煮詰められるという体験をした世代は外にない。

感受性の極めて高い青春真っ盛りの頃、
徹底した軍国主義教育を受けた後、
一転して民主主義教育に浸漬された沖縄の昭和一桁世代は、
そのまま歴史の流れに捨て去るには惜しいくらい、
語り部としての存在と責任は重いと考える。

特に、沖縄の昭和一桁の場合は、
戦争終了後も米軍の占領下で、
二十七年間も日本国憲法の埒外に置かれながらも、
治外法権的な外国軍隊の所行と基本的人権との相克や、
琉球列島の地政学的な特性に由来する
難儀苦労をつぶさに体験した世代なのだが、
二つの時代のよしあしを最も敏感に感じることができて、
むしろいい勉強になったと考えるのは、
私たち沖縄の昭和一桁だけの思い上がりだろうか。

私たちが、
至誠の命を火のように燃やして愛した祖国日本は、
いまどうなっているのか。

一億ニ千万の国民が、
またぞろ知らぬうちにどこかへ連れ去られていくのではないか。

人生の峠を越えて、
坂道を黙って降りていくだけでは収まらない、
なにか強い衝動のようなものを覚えて、
再び続編『最後の一中生』を出版することにしたのである。


同級会は「一水会」という名で、毎月一回第一水曜日に開かれている


ただし、今回の「一中生」は、
単に沖縄県立第一中学校だけでなく、
同世代の他の中学校・女学校生の思いにも連動し、
同感するものがあるのではないかと自負するものである。

どっこい、私たち昭和一桁は、
もっともっと若い世代に直言するためにも、
これからも気丈夫に生きていかなければならないし、
“生き生きて生きてし止まん”と、みな意気盛んである。



(以下、「続・最後の一中生 六十年の軌跡」にづづきます)


沖縄県立一中入学六十年記念誌「生きてし止まん・続最後の一中生」
〔60年の軌跡プロローグ〕より




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