Chokei's Okinawa Wars Column. 6



沖縄戦[一中生われら国士たるを期す]
綾門大道
(あやじょううふみち)



 ペリー提督が来航したとき米琉交歓風景、守礼門前で全員正装姿。



昭和十九年秋。
那覇市を襲った十月十日の大空襲にも
首里は災禍を免れて、
表向きはすべて安閑としていた。

授業は中止、小中学校は閉鎖されているはずである。
一中入学以来一度も訪れることもなかった
母校の附属国民学校は、その後どうなっているか。

様子を見たくなったチョウケイは、
一人で一中裏門を出て「綾門(アヤジョウ)通り」に入った。
裏門の衛兵に挙手の礼をしたらヒョイと通してくれた。

正式には、この大通りは
「綾門大道(アヤジョウウフミチ)」と呼ばなければならない。

首里城に出入りするための琉球第一の都大路であった。
かって、その北側には王族の屋敷が、
南側には王陵(タマウドゥン)やお寺が並び、
重厚な石垣に囲まれ、亜
熱帯照葉樹の屋敷林に深々と覆われていた。

綾門とは、赤く華麗に塗られた美しい門のことで、
現存する守禮門(上の綾門)と
一中の近くにあったといわれる
いまは無き中山門(下の綾門)のことだという。

ニつの綾門の間およそ二百メートルの広い道路を
「綾門大道」と呼ぶのだが、
これこそ琉球王国五百年の歴史に登場する
様々な人物が
それぞれの用務を帯びて通り過ぎていった
<歴史の往還>なのである。

進貢船に乗って明、清へと旅立つ前に、
王様への謁見を終えた役人たちが
那覇港へ向けて勇んで降りていったのもこの道。

十九世紀中葉。
日本の開国を求めるアメリカが、交渉を前にして、
東インド艦隊司令長官ペリーに琉球を訪問させているが、
そのペリーが総勢二百人の兵士と軍楽隊を率いて
首里城に達したときも、
やはりこの綾門大道を威風堂々と
行進していったに違いない(一八五三年)。

そして、一八七九年三月。
明治政府の強行な「琉球処分」の命を受けた
処分官松田道之が軍隊と警官を率いて首里城内に押し入った際も、
この「綾門大道」が彼らの強権発動のための門戸となったはずである。

この歴史ある往還は、市内の他の石畳とは違って、
特別な工法で丁寧に舗装されていることを
チョウケイは父にきいて知っている。

まず、基盤には琉球石灰岩の礫が厚く敷き詰められる。
その土に、イシグー(石粉)と呼ばれる
石灰岩性の粉粒が重ねられるが、
それと同時にかねて大量に用意された彿桑華(ハイビスカス)の
樹液が撒かれて固められるのである。

彿桑華の花と若枝を潰して造られた
粘着性の強い液はイシグーによく浸透し、
丸太で地ならしされたら道路表面と下層を
しっかりと固着してくれるという。

雨に漏れて日光で温められた舗装面では、
徐々に微生物の作用を受けて、
いよいよ粘着性と強度を増し、
人馬の重みにも耐えるようになる。

そういえば、雨の日に素足でこの路を歩くのは
大人も子供も危険であった記憶がある。
拇指を曲げて摩擦を作らないと
琺瑯のようにヌルヌルした表面に立つことはできなかった。

だが、いまチヨウケイの目の前にある綾門大道に、
往時の面影はない。

天幕に覆われた軍需物資が左右に積み上げられ、
ガラスのように艶々しかった王宮ヘの路は、
ささくれ立って、将兵が慌ただしく往来するだけである。


〔チョウケイ少年黒潮を渡る〕
第ニ章 森の町首里「鉄の暴風前夜」より




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