Chokei's Okinawa Wars Column.



沖縄戦[一中生われら国士たるを期す]
一中入学



             品格ある佇まいの県立一中戦前の校舎


昭和十九年四月。
一中の入学式が全合格者と父兄が出席して行われた。
平和な時代であれば、
数年後に一中第六十一期卒業生として
順調に巣立ったであろう学生であるが、
ちょうど一年後に迫る砲爆撃を思い、
これが、六十年の伝統を誇る一中最後の入学式となることを
予想し得た人が、果たしていたであろうか。

藤野憲夫校長の訓話はユニークであった。
漢文調で、随所に韻を含み、
ときに鋭く、ときに重厚に、
東条英機首相に酷似する風貌と相まって、
その語調は参列した父兄とピカピカの一年生を魅了し
鼓舞するのに充分であった。

「八紘一宇」「尽忠報告」「米英撃滅」「臥薪嘗胆」。
下校途中も「ベイエイゲキメツ、ガシンショウタン」を
呪文のように唱えながら、
もう一人前の一中生になり切って帰宅したものである。

当時、
政府は不足がちになっていた兵力と銃後の生産力を補うため、「
緊急国民勤労動員方策要綱」を打ち出している。
さらに、「緊急学徒勤労動員方策要綱」「決戦教育措置要綱」等、
次々と非常措置をとりながら、
中学校以上の青少年を
戦力増強に駆り出そうと懸命になっていた。

この「決戦教育措置要綱」によって、
「国民学校初等科を除き、
学校における授業は昭和二十年四月より昭和二十一年三月に至る間、
原則としてこれを廃止する」とされて、
義務教育以外の学校の機能はすべて停止されることが、
すでに決まっていたわけである。

それでも、その一年前の昭和十九年度には
沖縄一中では新学期を迎えて
新入生に対する授業がほぼ正常に行われていた。

やがて断ち切られる教師としての本務を想い、
一中を慕って目の前に参集してきた可愛い生徒たちに接して、
できるだけの授業を与えようとした教師たちの親心であったろうか。


英語の授業は、新一中生にとっては
珍しく一番魅力があった。
なにしろ国民学校の教科にないものといえば
英語ぐらいのものであったし、
「鬼畜米英の使う敵性語」に対する好奇心と淡い反発も混ざって、
みんな教師の口元を凝視し、耳を傾けた。

ある日、便所で、
小用を済ませて出て行こうとされる教師に偶然出会って、
咄嗟の間に「先生、ズボンのホックが外れています」
と指さした生徒がいた。

チョウケイの親友佐久原洋である。
便所で出会った恩師には、
ただ黙って頭を下げれぱいいものを、
いつも一言多い佐久原は、敬礼した瞬間に
先生の<社会の窓>を発見してしまったのである。

「佐久原君、待ちたまえ。ホックではない、
フックだ。言ってごらん。フック」
「フック」
「フック」
「フック」

授業の鐘が鳴るまで、便所の中での特別講義が、
まるで闘鶏のように続けられたという。

一方、生物の時間は、戦雲急を告げる慌ただしさの中で、
オアシスのようなひとときであった。
ヤファタ(ムラサキカタバミ)の小さな花を両手で大事そうに持って、
やさしく詳細に語る教師の目の色、口元、
詰め襟の国防服、お姿は
その動きを含めて、
チョウケイたちの脳裏にいまも鮮やかである。

あの授業のおかげで、
国民学校の頃からないがしろにされがちであった
やさしい情緒の世界を思い出し、
殺伐とした世相の中で、
ホッと人間らしい感懐に浸ることのできた
同期生は少なくなかったろうと思われる。

わずかな期間であれ、
ミクロの世界、美の世界に導き、
生命の尊さを言外に教えて下さった、
あの珠玉のような一中最後の名講義を
チョウケイたちは忘れない。

〔チョウケイ少年黒潮を渡る〕
第ニ章 森の町首里「一中生われら国士たるを期す」より




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