Chokei's Okinawa Wars Column. 1



沖縄戦[一中生われら国士たるを期す]
軍国少年



                      戦前の県立一中



軍国色に塗りつぶされ、騒然とした世情の中で、
徹底的に軍国少年に育て上げられたチョウケイが、
当然のように決意して目標と定めたのは、
県下中学校の最高峰と目されていた沖縄県立第一中学校を突破し、
その次にある幼年学校、陸軍士官学校、海兵学校、
あるいは一直線に時間と段階を省略して、
海軍飛行予科練習生になってどこかの戦場に飛んで往き、
潔く国のために死ぬことであった。

死ぬことは、痛みを伴うものであり、
死んだらすべてが終わることなど、
十三歳の少年には全く理解できない。

沖縄県立第一中学校は、享保元年(一八〇一年)、
ときの琉球国王尚温によって創始された「国学」に淵源を持つ
旧制中学校(現首里高校)で、
これまたエリート意識の強いいわゆる名門校である。



                  
紀元二六○〇年のその同じ年に創立六十周年を迎えて、
記念の逍遥歌が作られた。

歴史は旧き国学の、遠き流れを守りつつ、
注ぐは健児一千の、至誠の生命火と燃えて、
紅きデイゴの花の如、 一中生吾等国士たるを期す


多感で一徹な小国民は、
白線一本の学帽と霜降りの制服
(昭和十六年からはカーキ色の戦闘帽と服に変わった)を身につけ
<国土たるを期す>を唄うことが、
<国に殉ずる道>であるし、
親孝行の最たるものであるし、
己を高める唯一の選択であると思い込むようになっていた。

広き東亜の夜明け前、南へ進む日本の、
その只中に育まれ、海邦養秀意気高く、
黒潮の湧きめぐる如、 一中生吾等国土たるを期す

唄っているうちに涙が溢れて、拳を握る少年。
完全に天皇陛下の赤子となっていた。

ある日、セルロイドの筆箱の蓋に小刀で
一所懸命「必死」という文字を彫っているところを、
国民学校の優良訓導となっていた母親に
見咎められて正座させられた。

「死ぬことだけが国のためになるのではない。
生命を大事にして、人々のために尽くす。
これが国民のつとめだ。」諄々とさとされながら、
チョウケイは以前、
母親から似たような薫陶を受けたことを思い出していた。

泡瀬にいた頃。一年生となったチョウケイと同じ年の男の子が、
大人家族のわが家に同居するようになった。


                    県立一中の軍事訓練風景……

南米に移住した両親に、
どういうわけか置き去りにされて身寄りのない子である。
にわかに遊び友達ができて喜んだが、
自分と同じ帽子に服装、学用品、寝具まで同一で、
食事やオヤツまで均等という徹底した母親の博愛ぶりに、
子供心が反発した。ヤッカミである。
登下校の途中や帰宅後の軒先で、ウジウジといじめるようになった。
間もなくこれに気付いた母親の前に正座させられたのである。

「あなたは、私の一番大事な児。
この児も世の中の大事な児。
いまは都合でうちに預かっているが、
やがて大きくなって、
あなたの大事なお友達になる。
いまは、いっしょに仲良く遊びなさい」。

この頂門の一針は、博愛という刺青をチョウケイの脳に刻んだかのように、
チョウケイのその後の精神世界を彩っていく。
軍国少年は、しかしながら、
博愛と愛国心をない交ぜにしながら、成長していく。

昭和十九年四月。
一中の入学式が全合格者と父兄が出席して行われた。
平和な時代であれば、
数年後に一中第六十一期卒業生として順調に巣立ったであろう学生であるが、
ちょうど一年後に迫る砲爆撃を思い、
これが、六十年の伝統を誇る一中最後の入学式となることを予想し得た人が、
果たしていたであろうか。

〔チョウケイ少年黒潮を渡る〕
第ニ章 森の町首里「一中生われら国士たるを期す」より




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