Chokei's Fusato Column. 6


森の町首里





             里金城町の石畳道


首里は泡瀬に比ベれば水は豊富である。

海抜僅か百六十メートルの丘陵台地にありながら、
その中で、隆起珊瑚礁石灰岩を戴く小さい丘陵が三条も並び、
その麓には至るところに地下水が湧き出て、
飲料水には事欠かなかった。

事欠かないどころか、首里城台地の東には
豊かな水源を活かした名酒泡盛の醸造所が六十余りも栄え、
南側斜面には、豆腐と萌やし、
北西には紙すきの業が繁盛していたほどである

首里の王城は、このような地勢と豊かな水源に育まれた
人々の生業に支えられ発展した
<上部構造>の一つの現れといってもいい。

ところで、その首里の丘の上に城が現れたのは
いつの頃か、詳らかではない。
その昔、海を渡って琉球に漂着し、
海岸近くに集落を形成しながら発展していった部族が、
さらに権益を広げようとすれば、
まず眺望のいい丘の上に立とうとしたはずである。



     昔の首里の街並み(首里三箇)

北部の山岳地帯に比べれば、
中南部は標高僅か百メートルほどの丘陵地帯。
その中で一番高い首里の丘を目指していったに違いない。

地質学的な常識では、沖縄中南部の丘は
太古の昔から中国大陸の大河からの微粒子が堆積した
東支那海泥岩(クチャの層)が隆起してできたものだ。
そしてその上に珊瑚礁石灰岩が、
痩蓋(かさぶた)のように厚く覆っている。

この岩層はスポンジのように多孔質で
雨水をよく吸い込んで、大量に貯え、
徐々に麓に降ろして、泉水を養成する。
泉の周りには亜熱帯照葉樹が繁り、
動物が繁殖し、集落が栄えて、豪族が現れ、
そして権勢の証として砦が築かれる。

動物、植物も集落もお城も、
琉球ではすべて隆起珊瑚礁石灰岩に、
その繁栄の基を置いていることに気づかされる。

首里城を中心とする「城(ぐすく)群」が
世界遺産に認められたが、
改めて、珊瑚の島の様々な属性に心惹かれる次第。

首里は森の町だった。
石垣に囲まれた民家は例外なく赤い瓦屋根だが、
雨端(あまはじ)と呼ばれる軒の張り出しが長い上に、
亜熱帯照葉樹の屋敷林に深々と覆われて、
中からしわぶき一つ聞こえない静まり様。

目抜き通りだけは商店が並び、
下駄の音や話し声がまばらに聞こえる程度である。

屋敷町に入ると、耳が痛くなるほど、静穏そのもの。
物音は、まず枝葉の絶妙な消音効果で分散され、
石垣に吸収されて、外界には届かない。


メジロの囀り(さえずり)やけたたましいヒヨドリの声が
梢から風に乗って伝わるだけである。

首里のこの異様なほどの静けさにに感じ入って、
詩に表した人がいる。


しづかさよ、空しさよ この首里の都の
宵のいろ誰に見せやう 眺
めさせよう
 (佐藤惣之介)



現在首里虎頭山山頂にある佐藤惣之介の詩碑

首里城台地の上では、藩主(最後の琉球王尚泰)を失った城が、
補繕や化粧直しされる気配もなく、
荒れるがままに、これまた静まり返っているだけ。

この城内の中央には、
中国の紫禁城に酷似するといわれる正殿があり、
傍には中国の冊封使(さっぷうし)を接待するための北殿と、
幕府の鎖国令の陰にかくれて
琉球の搾取に乗り出してきた
薩摩在藩奉行を迎えるための南殿が対峙していた。
(一九九二年に、いずれも完全に復元された)。

だが、かって、廃藩置県の際に
派遣された熊本鎮台の兵たちが、
事もあろうに琉球のシンボルともいえる
これらの歴史的建造物の壁板を剥がして薪炭代わりにしたり、
柔らかい砂岩で仕上げられた欄干や龍柱を
壊したりの乱暴狼籍を働き、
昭和初期の首里城は見るも無残な有様であった。

しかし、小学生のチョウケイたちには、
日中両国の狭間で、
堂々五百年の王国の歴史を刻んだ首里城の誇りや、
その後幕府の諒解を得た薩摩に侵略され、
ヤマトゥ(大和)に併合されて、
静まり返る首里の町の鬱憤を理解することはできなかった。


         戦前の首里城正殿



〔チョウケイ少年黒潮を渡る〕
第ニ章 森の町首里「古都首里」より




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