Chokei's Fusato Column. 4


我は海の子 泡瀬の子







近くには畳屋があった。
子供たちが藁だらけの仕事場に上り、
しゃがみ込んて眺めていると、腕自慢のおじさんは、
口をへの字に曲げたまんま、
ますます仕事に気合いを入れる風情。

大きな包丁でサクサクと藁(わら)を切る手さばきや、
畳の縁を肘で叩く仕草にも勢いが乗って、
その凛然とした能度は辺りを払うほどであった。

一ミリほどの尖端を余して指で畳針を持ち、
作業台の下から抜く手も見せぬ早業で、
子供たちの太腿を
チクリと刺して飛び上がらせるおとぽけもやったが、
それがすべて無言のままの所作であるから、
子供たちは自分たちが近づき過ぎた故と思い込み、
いよいよ畏れ敬い、
再び一歩下って釘づけになるのであった。

就学前の子供たちが最も尊敬する大人は、
やはりこの<畳屋のおじさん>であった。
なにしろ、ただの典束から
次々と真新しい畳が香しく誕生してくるのだから、
子供心には驚きである。

この畳屋のおじさんの無言のパフォーマンスは、
子供心にもわざとらしさがうすうす感じられたが、
<目分の腕に見惚れてくれている子供たちへの愛しさと、
職人としての自負も微かに感じられて、
一種ぬくぬくとした相互理解の空気が
子供たちの心に惨み込むのだった。

大人になった今、
チョウケイも畳屋のおじさんの稚気を思い出しては、
これに似たようなおふざけを繰り返す。

泡瀬は産業の町でもあった。
多様性に富み、
子供たちの尊敬を集めるおじさんおばさんが大勢いた。
そのみんなが甲斐甲斐しく働く勤労者であった。

ブリキの板から複雑な形の
ジョロやバケツを作るカンジェーク(金細工)。

細長い木の板を縦に丸く連ねて
鉄筋や竹の箍(たが)をはめ、
黒糖用の樽を手際よく大量に作り出していく
タルガーヤ(樽<たる>皮屋)の職人。

樽詰めの黒糖や薪の束を荷馬車に
山のように積んで運ぶバサスンチャ(馬車引き)のおじさん。

汗みどろになった馬を樹蔭で休ませている間、
道端の<無人豆腐販売箱>から一〜二丁取り出し、
飼い葉桶の中てグニャグニャと混ぜ込んでやり、
ドードーと掛け声をして愛馬をもてなす、
この馬車引きのおじさんも人気があった。
人馬一体となって動く光景は、
子供心にも頼もしく、尊敬を通り越して、
なにかしら和やかで、有難い感じであった。



     
    貴重な現金収入となった沖縄のパナマ帽づくり

旧家の裏座には、四〜五人の女性が集まって、
せっせとパナマ帽を編んでいた。
近寄ると抱き寄せられて頬ずりされることもしばしばで、
こればかりは余り有難く思えなかったが、
接吻を振り切って、
一日中戸外で遊び惚けて夕方に戻ってみると、
もう立派な象牙色をしたパナマ帽が形よくでき
上っていたのには驚かされた。

この甘酸っぱい女性の一群は、
実は大阪方面の紡績工場に出稼ぎに行き、結核を患い、
お払い箱になって帰ってきた元女工たちで、
いま振り返ると、真に危険な<死の接吻>だったといえる。

こうして、子供の行動範囲が拡大するにつれて、
面白い人たち、尊敬できる大人はどんどん増えた。

泡瀬の南側に広がる塩田は
シンナー(塩庭)と呼ばれていたが、
ここで働く人たちは、
みなクバ笠(ビロウの葉で作った笠)の下で
頬被りをして黙々と働いていた。
ベトベトした砂を掻き棒で集めるおばさんも
潮風と強い照り返しを避けるためか
晒(さら)し木綿のタオルで頬被り。

その砂を水で洗って濃厚な塩水を作り、
大きな扁平な釜で炊いて煮詰めているおじさんも
火照りを嫌って頬被り。

その全工科を見終って、
でき上って山積みされた真白い塩を見せられたときの
小さな驚きも記憶に鮮明である。

畳やパナマ帽や黒糖樽などを作る過程よりも
長くて大規模で、
茫洋とした大自然の中から、
生活に必要な物資を形ある物として抽出する
大人たちの働きのすばらしさに感動を覚えたものである。

けだし、その頃のチョウケイはもう小学校へ進んでいて、
大人たちのやや複雑な仕事の流れにも従っていけるほどの
理解力は持っていたようである。

泡瀬の町の北側には波止場があり、
様々な生活費材が、一本または二本帆柱の
ヤンバルセン(山原船・沖縄本島北部の山原通いの帆船)で
運び込まれ、また頻りに積み出された。


                     山原船

そこで立ち働く大人たちも、
赤銅色に日焼けした顔・胸・腕の船乗りで、
その容姿は子供心にも惚れ惚れするほど見事であった。

また、泡瀬の町の西のはずれには、
軌道馬車の発着する小さな駅があり、
ここから出る一頭仕立ての客馬車は、
南方十数キロ離れた与那原の町との間を
陸上で結ぶ動脈の役を果たしていた。

このように、陸と海から泡瀬の町は
よその町や村にも繋がつていることを知るようになり、
そしてその広い世界のちようど真中に
わがふるさと泡瀬が在るようなあどけない錯覚が、
チョウケイの心を満たしていた。

ふるさと泡瀬は、子供の好奇心を誘発し、
感性を膨らませ、理解力を育むための、
情操教育の場としては最高の
自然条件と社会資源を潤沢に備えていたようだ。

戦災ですっかり消滅したが、
町全体が感動に溢れ
子供心にも尊敬できる人々の住む
心のふるさと泡瀬であった。



〔チョウケイ少年黒潮を渡る〕
第一章 我は海の子泡瀬の子「うるまの島々」より





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