Chokei's Fusato Column. 2


我は海の子 泡瀬の子




             泡瀬干潟。 彼方に勝連半島が……



戦前のはなしだが、
沖縄本島中部の東側に親指ほどの小さな半島があり、
そこに泡瀬という町があった。
半島の根っこから先つぽまで、
石垣囲いの住宅地が静かに広がり、
中央を走る商店街と町はずれの工場辺りは、
いつも繁盛していた。

北部の山村から
山原船(ヤンバルセン・二本マストの帆かけ船)で薪炭が運ばれ、
それを中南部の消費地に輸送する燃料の中継基地泡瀬であった。

そこは又、沖縄の中・北部で生産される
砂糖を容れる樽を生産する工業都市泡瀬であり、
にがり(マグネシユウムなどのミネラル)をたっぷり含んだ
<島マース>塩田の町泡瀬であった。


                  戦前の泡瀬の塩田

地面は、いつもさらさらとして素足に快く、
そこに住む人々の性格もからっとして、しかも気位が高く、
町全体のイメージは、すこぶる爽やかであった。
空気は百%海風で、天はとてつもなく大きく、
水平線まで遮るものがなかった.


チョウケイは、その泡瀬で生まれた。
両親が小学校の教師で、たまたま赴任地で生を受けたわけだが、
本籍の首里に戻るまでの十年間、
無心に遊んで過ごした日々。
人生の大事な部分を泡瀬の自然と人情に抱かれて、
育てられたといっても過言ではない。

その泡瀬。考えてみると、極めて沖縄的で、
甚だアジクーターな(こくのある)土地柄なので、
沖縄の島々の集落を脱明するには、持ってこいの町である。

<千里寄せくる海の気を>吸って童となり、
うるま(珊瑚礁の島)の砂地を
素足で駆けて遊んで十歳の少年になったチョウケイ。

思えぱ、この少年期の十年ほど、
チョウケイの人間形成に大きく影響した時期はない。

アヒルや四つ足動物も、
生まれてすぐ目にする自分より大きい物が動くとき、
これを最も頼りになるもの(親)と思い込んでついでいくという。

白い画板に最初のスケッチを描くように、
新鮮な脳に第一印象を刻み込むことで、
これをプリンティング(刷り込み)というらしい。

人間の場合は、アヒルのように一日や二日でプリンティングされるのではなく、
数年かかってゆっくり刻み込まれていくのだろう。

それからすると、
大都会の喧噪と汚濁の中で幼年期を過ごさなければならない
数千万の日本の現代の子供たちは気の毒である。

チョウケイの場合はラッキーだった。
ふるさとはビデオに撮って、
現代の少年たちに紹介したいほど魅力的な世界だった。

いやチョウケイに限らず、
戦前の日本(沖縄)の大多数の子供たちは、
山の緑か海の青さをまず目の奥にプリントされたのではないか。

チョウケイの場合も、十年間にプリンティングされた原風景が余りにも鮮やかで、
爽やかで、懐かしいもので、
いま、人生の後半になって、
自律神経が乱れて、心身のバランスを失いかけたときに、
チョクチョクその原点に戻って、
自分を放り投げることがあるほどだ。

疲れたときは、海にいく。
活力が欲しいときは砂浜の砂利を裸足で踏み、
大海原を渡ってきた潮
風を<肺が青くなるまで>吸い込む。

ふるさと泡瀬の特徴は、
「風」と「砂地」と「人の情(ちむぐくる)」。
まず沖の珊瑚礁が白直線に波を砕<辺りで、
遥か太平洋上を渡ってきた海風が、
急に荒々しさがとれて丸やかになり、
潮の成分をたっぷり含んだエアロゾルとなって、
イノー(礁湖:しょうこ)を渡ってくる。



赴任先の泡瀬の町はずれに一家が転居して、
その間借り先のウラザ(裏座)で産まれたために、
物心ついて最初に見た世界が、大海原であり、
漁師の家の庭から外へ流れていく
視線に沿った風景だったというわけである。

もっと詳しく残像をたどると、まず、茅葺きの母屋があり、
その脇の井戸を挟んで山羊小屋があり、
その前には傘状に枝葉を繁らせた
ユーナ(オオハマボウ)の老樹が
砂地の庭に木もれ日の丸い影を揺らめかし、
それはまたヒンブン(屏風)の石垣の
紋様に自然に溶け込んでいた。


            戦前の泡瀬の街並み。遠くに勝連半島がうっすらと見えている

無造作な野面積みの石垣の門ロを出ると、
その<向こう三軒両隣り>の位置に民家は無く、
めくるめく程に白く輝く農道の左右には、
干からびた畑を覆うサツマイモの蔓と
息も絶え絶えの雑草が、
炎天下の熱気に耐えて生えているだけの、
あっけらかんとした光景が広がっていた。

こう書くと、
いかにも動きのないスナップ写真の印象であるが、
ユーナの花びらはかすかに微風にゆれるし、
名も知れぬ羽虫が飛んできては消えていき、
日暮れにイモ畑を横切るビーチャ(ジャコウネズミ)や、
砂地に「縄文」を描きながら
這いずりまわるアーマン(ヤドカリ)など、
ささやかながら到るところに動きは見られた。

それに、畑と浜を仕切るアダン(阿檀=タコノキ)の
防風林も頻りに風に揺れ、
三百六十度見度す青空には、
綿雲が引きも切らず悠々と渡っていた。

防風林のアダンの長い葉の縁にあるトゲトゲと、
モクマオウの細い葉の間を擦り抜ける間に、
海風はヒューとか細い音を立て、
さらに酸素が潤沢に補給されて、
町の中にゆるやかに流れていく。

六月下旬、夏至を越す頃から、
琉球列島は入道雲の下、酷暑、
蒸暑に襲われ、人々はうだる。

ところが泡瀬の町に流れ込んだ海風は、
町中に繁るガジュマルの葉や
無数に垂れ下がつた気根に迎えられ、
分断される間に冷却されて、
石垣の間を通り、
縁側から開け放された家屋内に入る頃には、
もう全く人肌にやさしいそよ風となって、
裏座に抜けていくのだ。


どの屋敷にも、
門の内側にヒンプン(屏風)と呼ばれる
衝立(ついたて)状の仕切りがある。
ハイビスカスの生垣であったり、
家柄によっては、
立派な「布積(ぬのつ)み(緻密な石組み)」であったりする。

普通の民家は、
精々「あいかた積み(穴の多い多角形の石組み)」で、
農家では無造作な「野面(のづら)積み」がやっとである。

いずれにしても、
風はいよいよ謙虚になり
これまたどの家にもある
南北方向の短い廊下を通りながら
家中に涼感を届けるのである。

海風自南来  殿閣生微涼
(海風南より来りて、殿閣微涼を生ず)
といった境地か。

泡瀬はまた砂の町である。
名の示す通り、おそらく大昔は、
波に洗われて泡の立つ砂州だったのだろう。

沖縄の海には、
<島の胎児>ともいえるような砂州が少くない。
その砂州がいつの間にか大きくなり、
隆起して、草木が生えて、
立派な島になっていく過程が
観察できるのは日本では沖縄ぐらいのものだろう。
長生きしている人には
とても面白い天然のショーである。

例えば、戦前、波に隠れるほどだった
薄っペらな砂州(那覇市の沖およそ十キロメートルの
チービシ=無人島・慶伊瀬)に、
沖縄戦中(一九四五年)米軍の砲台が据えられ、
首里城を砲撃するのに使われたが、
戦後その砂州にいつの間にかアダンやモクマオウが生え、
いまでは、
砂採り業者の作業小屋まで建つほどに成長している。
琉球列鳥は生成、発展しているような感があり愉快である。

ところで、天保年間一八三〇〜一八四四年)、
江戸幕府の指示によって作られた検地図には、
泡瀬はもう砂州ではなく、
豆粒のように小さいながらも立派な陸地として描かれている。

昭和の初めには、沖縄本島とすでに一体となって、
半島状になり、
陸地も隆起していて商工業都市の地盤となっていた。
泡瀬には、しかも、真水の井戸もあった。
砂州からできた薄っぺらな陸地に
泉水があるということ自体おどろきだが、
その訳が最近になってわかるようになってきた。



ハブの島で有名な
海抜たった十メートルの小さい水納島にも井戸があって、
これは少し塩味がするが、
泡瀬のは汲めども尽きない真水であった。
チョウケイの推理はこうである。

まず、数千数万年前に生成された
皿のように凹んだ岩盤が隆起しつつ、砂を集める。
島を取り巻くリーフ(珊瑚礁)からは
絶えず珊瑚のかけら(砂)が寄せられ、
砂の層は厚くなっていく。

そのうち、植物の種子が漂着し、
あるいは、鳥に運ばれて草木が繁り、
砂地も肥沃になっていく。

雨水は砂地で瀘過されて
皿状の岩盤にレンズ状の滞水層となって、井戸を養生すると。


                 泡瀬郵便局

幼い心には、また、音の世界も多様であった。
メーと呼ぶ仔山羊のか細い声に、
ンベーと応える母山羊の声。
チンチンチンチンと低空を飛び交うヒバリ(セッカ)、
瀟々(しょうしょう)とアダンの梢をかすめて咽び泣く浜風、
波打ち際の小波に弄ぱれてカラコ
ロと鳴る枝サンゴの幻妙な音色、などなど。

だが、最も興味深く、
得体の知れない不思議な物音に聞こえたのは、
遠く、遥かに遠くから「シーン」と
辺りの静けさを切り割くように聞こえてくる製材所の鋸の音。

物みな天然の揺らめきの中に浸り、
灼熱の太陽にうだったままとろけるように静まり返っている 

五歳になったとき、
<浦の苫屋>から町の中央の大きな民家に引っ越した。

そこは泡瀬の町を東西に貫く目抜き通りに面した屋敷で、
エーマクエー(八重山桑江)という屋号を持ち、
粟石と呼ばれる砂岩の堂々たる石垣をめぐらせた旧家であった。

この新しい住まいの近くに製材所があった。
例の機械音がチョウケイをワクワクさせたが、
そればかりでなく、
表通りを往き交う人々のさんざめきや物売りの声などは、
静寂と喧噪のほどよい繰り返しとなって、
チョウケイの幼い感性をさらに豊かに、複雑にして、
外の世界を探求しようとする心を刺激するのに充分であった。

しぱらくして判ったことだが、
製材所の音は、遠いときには微かに「シーン」と聞こえ、
近づくにつれて「チーン」から「チャーン」と変って、
耳に強烈に響くようになる。
午後三時頃、一番気だるい時刻に、
程よい距離で聴く場合は、
眠気をもよおす不思議な効果があることにも気づいた。


泡瀬は人情の町であった。
智・情・意の精神世界がいきいきとした雰囲気で、
幼い子供の育つ環境としては最高だった。

鼻っ柱の強い闊達(かったつ)な気風は、
代々継承されて、
アーシンチュ(泡瀬人)の現在の精神構造を支えている。

アーシンチュは、気位が高いだけではない。
稚気と諧謔(かいぎゃく)に富んだ人々の町で、
ユーモラスな事件が頻発した。

町の北にある村から、
農産物を積んだ馬車に揺られて、
長い海中道路を渡ってくる農夫が、
しばしば町の若いもんにひっかかった。

海風に吹かれて車上でうつらうつらしている間、
町のはずれで青年たちが馬の手綱をとり、
馬車をそうっとUターンさせ、
そのまま馬の尻を軽く叩く。
気がついたとき、バサスンチャ(馬車挽き)は
自宅の庭先でおかみさんに
叩き起こされて目を白黒させる。
そのようなたわいない<大人の腕白>は日常茶飯事であった。

と出てしまうジョークは、
ふるさと泡瀬のウイットに富んだ
明朗な精神風土の賜物だと信じている。

一センチほどもある黒アリの尻には毒針があって、
米粒で女生徒の腰掛けに固定して置くと、
やがて運動場から戻ってきた
ブルーマー(体育時によく着用した女性用のふくらんだ短パン)の
かわい子ちゃんが、悲鳴を上げて
跳び上がるといういたずらもしっかり学んだ。

町で開業している小さな病院のごみ箱から、
手術で切断された人間の指をくすねてきて、
同級生のかわい子ちゃんの筆箱にこっそり入れて置くと、
おったまげてマブイ(魂)を落とすという
どえらいことも、泡瀬の先輩はやっていた。
でも、泡瀬の人たちは、みんなやさしかった。


〔チョウケイ少年黒潮を渡る〕
第一章 我は海の子泡瀬の子「うるまの島々」より




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