Chokei's Fusato Column.


我は海の子 泡瀬の子





         琉球国発祥の地…久高島


琉球列島ほど面白いところはない。

世界には、人の住むところ、住んでないところ、
いろいろな地点、地域、地方、国々があるが、
八方見渡して比べてみても、
琉球列島は面白さにおいては抜群である、と思う

なにが、どう面白いかは、人によっていろいろだが、
琉球列島が面白いという場合、ただ観光で
周ってみて楽しいとか、
異国情緒に溢れていて興味を惹くとか、
あるいはまた、半世紀前に日本で唯一地上戦に巻き込まれて
二十万の民間人(非戦闘員)が死に、
その後も異民族支配に岬吟(しんぎん)している忍従の島、
といった感じだけではない。

この島々は、そこに住んでいる人々が面白いし、
その人たちが育んだ文化がユニークで、また面白い。



それに、島々の動物や植物の世界、陸地や海、
地下に到る自然界のもろもろが特異で多様で、
これまた面白いのである。
つまり、精神風土と自然風土が快く合わさって、
豊かに洋上に漂っている感じといえようか。
でも、抜群とはいっても、世界一ではないかも知れない。


           イリオモテヤマネコ

かってチヨウケイは、
世界最高の文明を誇るイギリスのロンドンに暮らし、
アメリカのニューヨークやハワイを訪ね、
人跡未踏の南米アマゾンの密林に住み、
印度、中国の奥地、東南アジア、
南太平洋の国々にも足を伸ばして、
人々の暮らしと自然の多様性を見聞してきたが、
その物指しをもってすれぱ、
琉球列島以上に
自然の豊かさと歴史の重みを兼ね備えた地方は、
くやしいけど、数えきれないほどある。
それは、認める。
それでもなお、琉球列島が滅法かわいいし、
世界一ユニークだと思うのである。

ユーラシア大陸の東の果て、そこに日本列島がある。
昔は千島列島まで含めて、三つの弧を数えたが、
北の三分の一をロシアに占拠されて後は、
日本(本土)列島と南三分の一の琉球列島だけとなっている。

九州の南端から台湾にかけて、
点々と連なる大小の島々。
その数およそ百五十。
長さでは、琉球列島は日本の半分に相当する。
それが琉球列島だ。

官僚用語では「南西諸島」と呼んでいるが、
琉球列島の方が丸やかで重みがあり、
断然、この列島のアイデンティティを感じさせる。

琉球列島には、
その外に「うるま」という別称がある。
「うる」は浜辺の粗い砂(砂礫)のことで
「ま」は島を意味するという説もあって、
この島の成り立ちをよく表していて、
チョウケイとしてはこの方が好きだ。



                         伊平屋島

だが、この「うるま」の別称についでは、
その淵源を巡って様々な異説があり、
その本義をそっちのけにして、
安易に雅称としてのみ使うことを許さない
歴史的な重みがあるようである。
いずれにしても、
珊瑚礁(さんごしょう)が隆起してできた島々。

誰がつけたか、
洋上に縄のように浮かんでいるという意味の「沖縄」は、
もう、ノーコメントといいたいほど素っ気なくて味気ない。

その琉球列島。
いまからおよそ五百年前には、
小さいながらも、すでに、立派な王国だった。
それまで島々、村々に群雄割拠していた
按司(豪族)を次々と平らげて、
統一国家をつくった(一四二九年)といわれる尚巴志という人物。

その後、首里城を築き、地方の豪族を首里城下に集め、
武器を取り上げ、着々と
政治、経済、文化の基を整えたといわれる。
とはいっても、尚巴志王統だけが続いたのではない。
チマナマとした政変が、
さながらコップの中の嵐のように起こって、
いくたぴか王統が変り、
都合二十六代の第一尚氏、第二尚氏の王統が続く間、
琉球の島々は
<とてもかわいい豊かな王国>になったのである。


         復元された首里城

ともあれ、
沖縄の歴史はほぽ一千年(真境名安興「沖縄一千年史」)。
それ以前のことについては、
歴史学、考占学で様々に論考されているが、
ここでは有史以前としておけぱよい。

有史以前のその歴史は、
まずアマミキヨという神が降臨して、
これらの島々を経営したことから出発する。

学者は、アマミキヨは部族の名前であって、
九州南部にいた海部と称する部族で、
島伝いに奄美大島に達し、
さらに南下して琉球の島々に落着いたものという。

弥生式土器が発見されたり、
琉球方言と全国共通語に共通性、類似性が多いことで、
この地方の原住民と日本本土の住民が
由来を同じくすることは確かなようである。

このことはご徳川幕府の初め頃、
羽地朝秀(はねじちょうしゅう)<尚象賢(しょうしょうけん)>という
琉球の学者が、
初めてこれを唱え(日琉同祖論)、
それから七十年ほどおくれて新井白石が、
またこれを提唱し、
さらに、英人チェンバレンが言語学の上からこれを論考している。

しかしながら、史実としては、
奥州白川(東北地方)から北を蝦夷(えぞ)といっていたように、
種子島以南は南島で、
当時の常識では鬼ヶ島であり、
さらに、琉球は遥かの沖に連綿と連なる
一条の縄のような未知の島々であった。

沖縄という名称は、こうした印象から、
後世に与えられたものだろう。
一方、安田徳太郎(医博)は、日本民族の起源として、
言語学、風俗その他広範な知識を駆使して、
ビルマ、タイ、マレイ、南中国にこれを求め、
その移住経路を、南中国、台湾、琉球、南九州の線と、
南中国から中国の東岸沿いに北上して、
朝鮮を経て北九州に至る二通りの流れを唱えた。

この北上説と前述の海部族南下説の
どれを採るかはさておき、
とにかく、現在の沖縄の人間や文物は、
海部族のもたらしたものだけに留まらず、
広く南方に由来するもの、中国から取り入れたもの合わせて、
一種独特な色合いをみせるようになった
であろうことは疑いないようである。



民族と 文化のチャンプルー(混合料理)である。
それは、沖縄に住んでいて、
土地の人々とつき合い、
木造・石造建築物を眺め、染物・織物を手にしてみて、
唄と踊りを観賞し、
泡盛と郷土料理を味わえぱ
自ずと納得する地域特性である。
沖縄の伝統文化の多様性と奧深さが理解できる。

チョウケイは、そのような沖縄に生まれた。
得もいわれぬこの地の丸やかな風土に青まれ、
島々の文化の香りを誇りに思い、
人々の哀歓を熟知しているつもりの、
うちなーんちゅ(沖縄人)の一人である.

チョウケイの姓は吉田、名は朝啓(チョウケイ)、
由緒は遠く、
琉球王統第ニ尚氏第四代尚清王に遡る。

ウマリジマ(ふるさと)の温雅なチムグクル(肝心)に育まれ、
「チョウケイ」とか「ケイちゃん」と呼ぱれて、
かわいがられながら幼少期を過ごす。

だが、沖縄戦で美しい思い出のふるさとは
すべて灰燼に帰してしまった。
それからは米軍統治、日本復帰、
海洋博、海邦国体、全国植樹祭、沖縄サミット……
その間には、多くの語り尽くせないさまざまな出来事があった。

チョウケイ少年(後のドク卜ル・チョウケイ)は、
常にその時代の渦の中にいた。
いや、「いた」というより、
うちなーんちゅ(沖縄人)である限りカヤの外にいることは、
やろうとしても出来ることではなかった、
と言った方が正しい。

魚雷の跳ぴ交う黒潮の海を渡ったのも、
医師となり、
公衆衛生の道に進みマラリア、フィラリア、
腸内寄生虫症などの風土病に立ち向かい、
海洋博覧会の施設建設で毒蛇・ハブと闘ったのも、
米軍基地と関わる事件、事故で
絶対権力者・高等弁務官と渡り合ったのも、
移民を引き連れて南米・ボリビアに渡ったのも、
ひとえにチョウケイが宿命のうちなーんちゅだからだ。

幼少の頃に感染したフィラリアは、
人生の岐路で悩むチョウケイに
大いなる決断を促すことになる。
さらに、今も左下肢象皮病として
チョウケイの足伽となり
<左右不対称>の生活を強いている。

このように、うちなーんちゅに襲い掛かる荒波は、
すなわち、チョーケイにとっても人生の荒波であった。
ことほどチョーケイの人生は吉田朝啓の個人史でありながら、
うちなーんちゅの近・現代史そのものなのだ。

チョウケイの生きざまから
沖縄の近・現代史が視える、と言えようか。
沖縄は、アメリカにとっては「大平洋の要石」であり、
「日本のアキレス腱」となって今も国際政治の渦中にあり、
多くの軋轢に苦しめられ続けている。

広大な米軍基地、近隣諸国からの密輸、
続発する米軍人による事件・事故、
狭い県土に錯綜する開発、ごみや埋め立てなどの環境問題……。

しかし、残念ながら、
苦難の歴史と独特の文化を持つ日本の一部、
この沖縄を知らない日本人が、 まだ多い。

もっと知ってもらうには、どうしたらいいか。
沖縄の政治、経済、社会、文化、自然(動物、植物等)の
各分野について書かれた本は、枚挙にいとまがない。
郷土関係図書、出版物の数は
沖縄は全国トップレベルにあるという。

でも、沖縄をトータルに深く理解してもらうには、
専門図書は特殊過ぎるし、
観光用パンフレットでは喰い足りない。

そこで、一計を案じてチョウケイ自身を裸にして
七十年の生涯を時間軸にとり、
その左右に起こるさまざまな事象を描写しながら、
沖縄の奥深いところを全国に紹介しようと考えた。

ときに、海外から沖縄(日本)を眺め、
ときに、沖縄の底辺に光源を置いて、
逆照射しながら、
うるまの島の綾模様を映し出してみようと思った。

これから文中に出てくる「チョウケイ」は、
著者個人・吉田朝啓ではなく、
公衆衛生を専門とする一人の
地元医師が代表するうちなーんちゅそのものであり、
戦前、戦後の七十年を生きた典型的な沖縄県人の一人である。


〔チョウケイ少年黒潮を渡る〕
第一章 我は海の子泡瀬の子「うるまの島々」より



     
上へ          次へ      故郷おきなわのコラムトップへ

ホームへ

inserted by FC2 system